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金沢仏壇の歴史
 金沢仏壇の沿革を知る上で次の二点が重要である。

 即ち一つは金沢仏壇の製造が繁栄した背景に蓮如上人の北陸巡化によって浄土真宗が庶民の間に非常に深く根が下されている事。一つは三代藩主前田利常によって整備され、五代綱紀によって完成された細工所によって優秀な工芸技術家が大勢育つた事である。

 文明三年(1471)南加賀の吉崎を来訪した蓮如上人は次第に加賀一円にその教えを広め部落ごとに道場をつくり、いくつかの道場が出来ると末寺を設けた。こうして設置された道場は、加賀農民にとっての信仰の場として又寄り合いの場となり自治組織として発展していった。

 又同時に御講が各地に出来て仏壇の必要性が自然に芽生えていった。一方仏壇の製作について考えられる事は、三代利常によって細工所が作られ(細工所については北陸史学会員田中喜男著「金沢の伝統文化」日本放送出版協会「百万石の城下町」北国新聞社編(河出書房発刊を参考)京都・大阪より大勢の名工を招き定住させ細工奉行の下七十名余の細工者を抱え優秀なる美術工芸品を製作し、加賀美術の基礎を築いた。

 当時の細工所には蒔絵、漆、紙金工、絵、針、具足、薫物、小刀、象眼、刀鍛治、研物、茜染、大工、御能作物、束帯装束着など、23種に分かれていた。これらの細工者は藩より扶持を受け御用職人として姓を与えられ士分に近い格式を持って一般町人と別の新しい身分を構成していた。これらの職人によって作られた製品は将軍家、公家、諸候、寺社との交際時の御進物、家臣領内寺社への下賜、寄進などに使われ、又、時がたつにつれて、細工所の流れをくむ多くの職人が町に住み、木地師、塗師、金具師、蒔絵師、彫刻師等として一般庶民の需用に応え、仏壇等の製作も行っていたものと考えられる。

 細工所はもと城内(現在金沢大学体育館)にあったが、火災によつて焼失、次々と移り最後は現在の石川県営駐車場附近に再建された(所在地「金沢古蹟志」金沢文化協会刊)又その問徳川幕府宗門改革が断行され、各家が仏壇を持つ事を強要され、仏壇のない家は邪宗として厳しく処罰された。元来加賀は真宗王国の伝統の地であり仏壇の需要は他地域より進んでいだが、この幕府の政策は加賀の人々の仏壇への需要を一層高めるに至った。

 一方そうした中で品質も細工所の蒔絵技術等も導入され、その品位が高められると共に江戸中期より他藩から工人の流入を禁止したため、室町文化を伝統をそのまま純粋に守り続けられている。金沢仏壇の大きな特徴ともなっておリ、その後文化年問金沢城二の丸御殿再建の金箔需要から安江木町の箔屋伊助が金箔の製造を行い、その後能登屋伊助の活躍により金沢での金箔生産の活発化は自ずと金沢仏壇を増々荘厳華麗なものに仕立てた。
 

(c)2003金沢仏壇商工業協同組合